幕末を代表する集団として新選組があります。
歴史小説から大河ドラマや映画の題材に使われ最近ではゲームやアニメでも新選組を主役に作品が作られるほどの有名ぶりです。
そんな新選組が歴史の表舞台に出るまでを紹介します。
武士では無かった近藤や土方
新選組の局長となる近藤勇や副長となる土方歳三はそもそも武士ではありませんでした。
二人は同じ武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市や日野市)の農民だったのです。
農民とはいえ近藤は剣術の流派である天然理心流の四代目を受け継ぐ腕の持ち主であり土方と沖田も近藤の道場で剣術を学び剣士としての腕を磨いていた。
武士では無いけれども剣の腕を磨く彼らに機会が訪れます。文久3年(1863年)に浪士組結成の為に浪人など腕に覚えのある者の募集がされた時です。
浪士組として上洛
浪士組は第14代将軍である徳川家茂が京都へ上洛するのを警固する為として清川八郎によって結成されました。
身分を問わない浪士組の募集は腕に覚えがあっても剣の腕を生かせ無い近藤や土方にとっては渡りに船でした。200人以上も集まった浪士組は2月8日に江戸を出発して23日に京都へ到着します。
しかし京都へ着くと清川はその本性を現します。
清川は尊王攘夷派だったのです。清川は浪士組を将軍警固ではなく尊王攘夷運動に使おうとしていました。清川は浪士組を江戸へ戻す事に決めましたが京都に残り将軍警固の役目を続けると反対した人達が居ました。
それが近藤達です。
壬生浪士組
江戸へ戻る事に反対した近藤達22人は京都郊外の壬生村の八木家を屯所にして文久3年3月に壬生浪士組と名乗ります。
近藤は水戸浪士の芹沢鴨や新見錦と並んで局長となり、やがて芹沢が頭取となります。
しかし清川と別れて自活する活動資金の問題がありました。
また大阪の豪商である平野屋五兵衛から100両を、鴻池善右衛門から200両を出させて資金を得ます。
豪商から得た資金で新選組の特徴である浅葱色の隊服を作ったとも言われます。
資金を得た壬生浪士組は正式な団体として認めて貰う必要があります。今のままではただの不審な浪人の集まりに過ぎません。
そこで京都で治安を守る京都守護職を務める会津藩主の松平容保へ頼みに行きます。
松平容保から京都の市中警備の役目を貰い会津藩お預かりと言う後ろ盾を得ます。
こうして壬生浪士組は公式に認められた団体として4月には将軍家茂が京都から大阪へ行く時の警固を行い八月十八日の政変でも会津藩と共に御所の警固を行います。
新選組誕生
八月十八日の政変に出動して役目を果たした壬生浪士組は名を新選組に変えます。
新選組の名前は壬生浪士組の預かり主である会津藩主松平容保から頂いたと言われています。
また新選組隊士の1人である島田魁は後年「新選組」の名前は朝廷にある武家との連絡役である武家伝奏から頂いたとも言われます。
新しい名前になった新選組はまた心機一転を図ります。
壬生浪士組から近藤派と芹沢派の二つの派閥がありました。近藤は文久3年9月に芹沢派を粛清して新選組を近藤が率いる組織として一新して新選組として再スタートするのです。
ゼロからのスタートだった新選組
多摩に住む無名の浪士だった近藤や土方・沖田は浪士組として京都へ行くチャンスを掴みました。京都に来た事で幕末動乱の表舞台で活躍する事ができたのです。
新選組は近藤達がゼロから自分の腕で作り上げた団体だったのです。