陸奥守吉行を持つ愛刀家坂本龍馬

薩長の間で行う貿易を支える亀山社中を作り薩長同盟を仲立ちしたり藩に縛られず新しい考えを実行に移す革新的な人物と言われる坂本龍馬。

そんな龍馬の趣味は古くからある日本刀の鑑定や収集だったのです。

剣術と龍馬

土佐の郷士坂本八平の次男として天保6年(1835年)に生まれた坂本龍馬は14歳の時から小栗流の道場である日根野弁治道場に通い剣術の修行を始めます。

龍馬が19歳の1853年(嘉永6年)に「小栗流和兵法事目録」が与えられ小栗流で得た剣術の技が認められた。それをきっかけに江戸へ遊学に行き江戸三大道場の一つと言われた北辰一刀流千葉定吉道場へ入門します。

土佐へ戻る時期を挟みながら龍馬が24歳の1858年(安政3年)には「北辰一刀流長刀兵法目録」を受けて北辰一刀流の技も習得します。

小栗流と北辰一刀流に学んで技を習得する龍馬はまさに剣術に打ち込む多くの江戸時代の武士と変わらぬものでした。

しかし龍馬が幕末の動乱で活躍するようになると身に危険が迫ります。

二つの流派を習得した龍馬は刀で戦えば強いでしょう。

しかし、龍馬が実際に手にした武器は刀では無くアメリカ製の拳銃でした。

慶応2年(1866年)龍馬が32歳の時に京都にある池田屋に泊まっていた龍馬は幕府の伏見奉行所による襲撃を受けます。

囲まれた龍馬は拳銃を撃ち奉行所の捕手達が発砲音に驚いた隙に池田屋を脱出します。

もはや国外の事も知った龍馬は剣術だけが武器ではないと知っていたのです。

愛刀家龍馬

拳銃を使い刀に執着しない新しい時代の人間として龍馬は見られます。

でも龍馬の趣味は刀の鑑定や収集でした。

龍馬がいかに愛刀家だったかと伺わせるのは龍馬が最初の江戸へ行く時に龍馬の父親である八平が渡した「修行中心得大意」の中にあります。

「修行中心得大意」と言う手紙は江戸へ行っても遊び呆けず修行に専念しろと龍馬へ注意する手紙です。

その中に「諸道具に心移り金銀を費やさざること」とあります。

ここの諸道具は刀剣類の事です。江戸で龍馬が名刀を見つけては浪費するのを父親は手紙で書いて止めているのです。

そんな龍馬は刀を収集するだけではなく鑑定もしていました。

江戸で龍馬と出会い海援隊で龍馬と行動を共にした紀州藩士の陸奥宗光は龍馬に短刀の鑑定を依頼しました。

龍馬は自分が宗光へ渡す予定の脇差よりも宗光の短刀の方が銘と形が良いと鑑定の手紙を出しています。

最期は家宝の刀と共に

それほどに龍馬が愛刀家になった理由は生まれ育った地元にあります。

龍馬が生まれ育った高知城下の上町には刀鍛冶や鉄砲鍛冶に農具を作る鍛冶など鍛冶職人が多く住んでいました。

鍛冶職人に加えて研師や鞘師など刀を作る職人も揃っていて刀を作るところから龍馬の刀を見る眼は養われて鑑定までできたのです。

刀が作られる町に生まれ刀を趣味にした龍馬が身につけていた刀は土佐の刀工が作った「陸奥守吉行」です。

土佐藩を脱藩した後で龍馬は兄の権平へ「国難に挑む武士は家宝の刀を帯びるもの」と書いた手紙で「吉行」を譲って欲しいと懇願して送って貰います。

故郷の刀を帯びながら龍馬は幕末動乱を渡ります。それは龍馬の最期となる慶応3年(1867年)11月15日の近江屋事件の時もでした。

不意に刺客に襲われた龍馬は「吉行」を鞘に入れたまま刺客の刀を受け止める事はできましたが鞘から「吉行」を抜いて刺客に立ち向かう前に絶命してしまいます。

 

 

刀を美術品として愛した龍馬は凶刀によってその生涯を閉じてしまったのです。

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ABOUTこの記事をかいた人

葛城マサカズ

ミリタリーと歴史が好きな30代男性です。 近現代史をメインとしてますが戦国時代や幕末も好きです。【詳細プロフはこちら】