結局、坂本龍馬は何をしたのか?

幕末の人物を代表する存在が坂本龍馬と言えます。

では龍馬は幕末で何をした人なのでしょう?

龍馬の足跡を紹介します。

土佐藩に生まれ脱藩する

天保6年(1835年)11月15日に坂本龍馬は土佐藩郷士である坂本平八の次男として誕生します。

 

 

 

 

 

 

 

龍馬は剣の腕を磨くために19歳と24歳の時に江戸にある北辰一刀流の千葉道場へ学びに行きます。

日野根道場と千葉道場から腕を認められた龍馬でしたが28歳の龍馬は文久2年(1862年)に土佐藩を脱藩します。

土佐勤王党での政治活動に加わっていましたが江戸遊学中にペリー来航に遭遇します。

ペリーの黒船を目にした龍馬は海外に関心を持ち土佐藩だけで収まらなくなっていました。

その収まらない気持ちから龍馬は脱藩したのです。

脱藩した龍馬は江戸で幕府の軍艦奉行を務めている勝海舟に弟子入りします。

龍馬は勝海舟の下で神戸海軍操練所の設立を手伝い塾頭として働きます。

ここでまず日本の海軍の芽を育てる功績を龍馬は残しています。

しかし神戸海軍操練所は禁門の変を起こした長州藩の藩士が生徒に居た為に閉鎖される事になります。

暗躍する龍馬

神戸海軍操練所を去った龍馬は勝から離れて各地で人に会うようになります。

薩摩の西郷隆盛や長州の桂小五郎に公家の三条実美など幕末での重要な人と会います。

慶応元年(1865年)人脈を作る龍馬は薩摩藩の出資で元海軍操練所の人々と共に亀山社中と言う商社を立ち上げます。

この亀山社中は薩摩藩名義で武器を買い、その武器を長州藩へ売り長州藩が幕府から攻められた時に勝つ事ができました。

裏から薩長を結んでいた龍馬は慶応2年(1866年)に薩長同盟を結ぶ仲立ちをしたと言われています。

龍馬はこの時に幕末史を大きく動かす存在になったのです。

それを示すように薩長同盟を結んですぐに龍馬は京都の寺田屋で幕府の京都見廻り組に捕まりそうになる寺田屋事件に遭います。

龍馬の最後

寺田屋事件の後で結婚したお龍と新婚旅行をしたり紀州藩と船の賠償を巡る裁判を起こしたり後に龍馬の逸話や伝説を残します。

龍馬は亀山社中を海援隊に改めてより倒幕運動への協力をします。外国商人から武器を購入し薩長に売る事業を続けていました。

 

 

 

 

そんな龍馬は倒幕後の新しい日本の政治体制として議会政治をするべきだと書いた船中八策を残し龍馬の先見の明を示す史料になっています。

しかし、龍馬は船中八策を書いてから5カ月後の慶応3年(1867年)11月に京都で暗殺されてしまいます。

結局何をしたのか?

坂本龍馬は何をした人物だったのでしょうか?

海軍操練所で船の技術を教え、薩長同盟を結び、外国から武器を買い倒幕に協力した。

龍馬は裏方のような役割に見えます。

その裏方が出来たのは脱藩したからこそ藩の束縛が無い自由さがあったからです。

龍馬は藩から抜け出した自由な立場で時代を動かす裏方であったと言えます。

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ABOUTこの記事をかいた人

葛城マサカズ

ミリタリーと歴史が好きな30代男性です。 近現代史をメインとしてますが戦国時代や幕末も好きです。【詳細プロフはこちら】