下田と函館を開港させたペリーはどんな人?

日本史の授業で記憶に残る外国人として室町時代に日本へキリスト教の布教に訪れたフランシスコ・ザビエルと並んで黒船の艦隊で幕末日本に開国を迫ったマシュー・ペリーが有名ではないでしょうか?

日米和親条約を結び長崎だけの貿易港を下田と函館に広げ日本の歴史を変えたペリーですがどんな人なのかは知られていません。そこでペリーはどんな人なのかを紹介します。

マシュー・C・ペリー誕生

日本に黒船で来たペリーの名前はマシュー・カルブレイス・ペリーと言います。

1794年4月10日にアメリカ東部ロードアイランド州ニューポートで海軍軍人である父親の息子として生まれます。

マシュー・ペリーが生まれた時代はアメリカ独立戦争の後で初代大統領ジョージ・ワシントンが再選して2期目を務めている独立国家アメリカが始まったばかりの時期です。

ペリー家は父親も兄も海軍軍人と言う家庭です。

マシュー・ペリーも14歳の時に海軍へ入隊します。

1812年に勃発した米英戦争で兄のオリバー・ハザード・ペリーはアメリカ北部の五大湖の一つであるエリー湖での戦いで艦隊を率いて英軍の艦隊を降伏させ全ての艦を捕獲する戦果を挙げる戦いぶりをしていました。

エリー湖での勝利はデトロイトなどのアメリカ北部を攻める英軍とインディアン軍の補給を断ち米軍の優位に戦局が進むきっかけを作りました。

英雄となった兄オリバー・ペリーを追うようにマシュー・ペリーは要人を護送する船の船長や海賊退治の作戦に参加するなど海軍での軍歴を重ねて行きます。

蒸気船海軍の父となる

マシュー・ペリーは1837年に「海軍に関する所見」と言う論文を出します。

この論文で英仏海軍は蒸気船の軍艦がるのに米海軍には蒸気船の軍艦が無いので保有すべきと書かれていました。

まだ風を受けて動く帆船の軍艦が主流の米海軍のままでは蒸気機関で自在に船に動力を得られる蒸気船の軍艦に負けてしまうからです。

ペリーは論文を出すだけではなく英仏へ蒸気船研究の視察へ行き1837年には習得した技術からニューヨークで蒸気船「フルトン」の建造を始めます。

ペリーは完成した「フルトン」の初代船長になります。自ら蒸気船の軍艦がいかに有効な戦力か実証して見せて米海軍は世界の最新技術を取り入れた海軍になる事ができました。

この功績からペリーは「蒸気船海軍の父」と呼ばれるようになります。

蒸気船海軍の父となったペリーはアフリカ艦隊の司令官として現場へ復帰します。

アフリカ艦隊でペリーは解放奴隷をアフリカ東部のリベリアへ帰国させる任務を行います。

解放奴隷がリベリアに住むのを嫌がる部族との問題を武力行使も辞さない毅然とした態度でペリーは挑み解放奴隷のリベリア定住を助けました。

ペリー日本へ

米海軍を新時代へ進めたペリーは1846年からのアメリカとメキシコの戦争である米墨戦争でメキシコ湾艦隊の司令官として戦います。

この戦争で勝利したアメリカは現在のアメリカ西部の大部分をメキシコから獲得します。西海岸も領有するアメリカは大西洋とメキシコ湾に次いで太平洋に面する国にもなりました。

1852年2月に東インド艦隊司令官となったペリーは第13代大統領のミラード・フィルモアから日本へ行く指令を受けます。

59歳にして未知の国である日本への遠征を指揮する事になったペリーでしたが艦隊の準備は進みません。業を煮やしたペリーは11月24日に軍艦「ミシシッピ」1隻だけで東海岸のノーフォークを出港します。

太平洋に石炭などの補給ができる拠点が無いので大西洋からインド洋を回る地球半周以上の航路を進みます。

上海で3隻の軍艦と合流してペリーの艦隊は4隻に増えます。

ペリーはまず琉球へと向かいます。

ペリー日本を開国させる

現在の沖縄県である琉球は王国として独立国でした。1853年5月26日に琉球へ来航したペリーは琉球に石炭補給の拠点を置く為や貿易・領事裁判権などを琉球王国へ求めます。

この要求を通す為にペリーは大砲を持たせた海兵隊と共に首里城へ交渉に向かう高圧ぶりを見せます。琉球王国はペリーの高圧ぶりに琉米修好条約を結びます。

ペリーは琉球を開国させると6月14日に小笠原諸島の父島へ向かい拠点として使えるか調査を行います。

一旦、琉球へ寄った後でペリーは本来の使命である日本へ向かいます。

1853年7月8日(日本では嘉永6年6月3日)にペリーの艦隊は浦賀に到着します。

ペリーは交渉の引き延ばしや遠回しの拒否をする江戸幕府に対して米大統領からの国書を大君(将軍)に渡すと一歩も退きません。ついには軍艦1隻を江戸に近づけて威圧します。江戸幕府から国書の内容について翌年に回答すると返事を貰いペリーは一旦帰国します。

翌年1854年(嘉永7年)1月にペリーは7隻の艦隊を率いて再び来航します。江戸幕府との交渉は1カ月に及び3月3日にようやく日米和親条約を結ぶ事ができました。

この条約で長崎だけの限られた外国貿易しかしていない日本で新たに伊豆半島の下田と蝦夷地(北海道)の箱館(現在の函館)が貿易港に加わります。

長崎だけしか開いていない江戸時代の日本を開国させる事ができたのです。

ペリーの最期

日本を開国させ帰国したペリーは日本への遠征についてまとめた「アメリカ艦隊の中国海域及び日本遠征記」と言う全3巻にもなる本を作ります。

ペリーはその本を書き終えた後の1858年に63年の生涯を閉じます。

ペリーは日本を開国させ日本史に大きな影響を与えただけではなく、アメリカでは海軍に蒸気機関を取り入れる革新を行いリベリアでは解放奴隷を助けるなど様々な活躍をしていたのです。

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ABOUTこの記事をかいた人

葛城マサカズ

ミリタリーと歴史が好きな30代男性です。 近現代史をメインとしてますが戦国時代や幕末も好きです。【詳細プロフはこちら】