明治維新の先頭を行く長州藩

明治維新を引っ張る先頭の役割を果たした藩があるとしたらそれは長州藩でしょう。

京都で朝廷との工作を行い、幕府との関係が悪化して戦闘を起こす激動を経て、達成した維新を実行した長州藩はどんな藩なのでしょうか。

関ケ原の負け組から始まる

長州藩は周防国と長門国の二カ国(現在の山口県)を所領にした36万9000石の藩です。

その長州藩の藩主は終始毛利家が務めました。

そもそも長州藩ができたのは毛利家が関ケ原の戦いに敗れたからです。

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで毛利家の毛利輝元は西軍の総大将として参加しました。元から徳川家康と戦う事に乗り気では無く輝元は大坂城から出ず消極的でしたが、勝者の徳川家康により所領を七ヶ国削られ石高は120万石から36万石へと大幅に減らされました。

毛利家は江戸時代も存続を許されましたが長州藩では自然と徳川家への反発が藩士に根付くようになります。

新年の藩主への挨拶では「今年は徳川を討ちますか?」と藩士が尋ね藩主が「まだ時期尚早である」と藩主が答えるのが通例になったほどです。

暗躍する長州藩士たち

ペリーの黒船来航による開国は徳川幕府の権威を揺るがします。

開国にあたり幕府が決めるのではなく全国の大名に意見を求め朝廷や天皇に許しを求めるなど以前のような強さに陰りが見え始めました。

土佐藩では土佐勤王党や薩摩藩では精忠組など西国の諸藩で尊王攘夷の考えを持つ集団が結成されて藩の政治に影響を与えるようになっていました。

長州藩もそうした時代の流れで尊王攘夷の思想を持つ藩士が増えていました。

尊王攘夷とは天皇を敬い外国を討つと言う考えです。

この考えから開国して他国との友好を深めようとする幕府を外国の進入を快く思わない天皇や朝廷の感情を無視しているとして幕府を批判する考えへと繋がりました。

長州藩では吉田松陰の松下村塾で尊王攘夷の思想が教えられました。

松蔭から学んだ門弟達は維新の志士として時代を変えて行きますが最初の行動は外国を追い払う攘夷運動でした。

文久2年(1862年)12月に高杉晋作や久坂玄瑞ら長州藩士達が江戸にある英国公使館を焼き討ちする事件を起こします。

高杉も久坂も松下村塾で学んだ人達でした。

尊王の運動では京都に久坂や桂小五郎ら長州藩士と土佐藩の土佐勤王党の武市半平太と連携して朝廷にある尊王攘夷派公家に働きかけて幕府に味方する公武派の公家の力を落とそうと暗躍していました。

長州藩の苦難始まる

京都では長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派が水面下で動くのを幕府は見廻り組や新選組を使い阻止しようとしていました。

幕府と朝廷に近づき政治的な力を強めようとする長州藩などの諸藩や浪士の闘争が京都で繰り広げられます。

幕府は京都で力を増している尊王攘夷派に危機感を抱き大きく動きます。

文久3年(1863年)8月18日に京都御所で尊王攘夷派公家を公武派公家達によって朝廷から締め出すクーデターが起きます。

この八月十八日の政変と呼ばれる事件は公家のみならず長州藩も御所の門の一つである堺町御門を警備する役目を解かれてしまう事になります。

幕府と公武派公家により尊王攘夷派の公家達と共に長州藩は京都から追い出されます。

三条実美など7人の公家が長州藩士達と共に長州藩へ落ち延びます。この様子は「七卿落ち」と呼ばれ尊王攘夷派公家と長州藩士にとっては屈辱を味わう場面です。

一方で京都で暗躍していた桂小五郎らは京都に潜伏して残り活動を続けます。

幕末動乱の火中へ長州藩は入っていきます。

長州藩は幕府に反発するように強硬な動きに出てしまうのです。

攘夷を実行する長州藩

京都から追い出された長州藩ですが意気消沈するような事はありませんでした。

幕府は朝廷や天皇からの強い求めに応じて5月10日に外国を追い払う攘夷を実行すると約束していました。

長州藩はその攘夷を実行する為に砲台を関門海峡の沿岸に築き準備を進めます。

何故長州藩が攘夷を進めたのか

それは朝廷や天皇に攘夷実行をすべきと訴えたのが長州藩でもあったからです。

攘夷をするかどうかの問答で幕府より優位な政治力を得たい為に無理難題を持ち出したのです。

京都から追い出された長州藩は攘夷を率先して実行する道を選びました。

文久3年(1863年)5月から6月にかけて長州藩は関門海峡を通るアメリカやフランスの艦船へ砲台から攻撃して攘夷を実行します。

米仏の艦船に損傷を与えたものの四ヶ国が連合しての反撃を長州藩は呼び込む事になります。

池田屋事件

八月十八日の政変で長州藩が京都から追い出されたとはいえ京都には桂小五郎など長州藩士が潜伏していました。

元治元年(1864年)6月5日に京都の旅館池田屋での密会に新選組が踏み込む事件が起きます。

いわゆる池田屋事件です。

この池田屋事件で長州藩士3人が新選組や会津藩士の手にかかり亡くなってしまいます。長州藩内では藩主毛利敬親とその子である元徳が八月十八日の政変で京都へ入る事を禁じられた事を取り消して貰う為に京都へ進軍する「進発論」を支持する声が高くなっていました。

桂や高杉晋作は慎重論を説いていましたが池田屋事件よって進発論を止める事ができなくなりました。

益田右衛門之介など長州藩の家老3人に率いられた長州軍1600人は6月19日に京都へ向けて出発します。

禁門の変と馬関戦争

京都の近郊に布陣した長州軍ではありましたが、京都へ入る事は許されません。

7月18日に行き詰った長州軍は京都へ突入して幕府軍と朝廷や天皇の住まいがある御所の前で戦いを始めます。これが禁門の変です。

この戦いに英国公使館を焼き討ちした久坂も居ました。しかし彼は京都へ長州軍を進軍させる事そのものに慎重でしたが

聞き入られず不本意なまま戦火に身を投じ長州藩士寺島忠三郎と共に自害してしまいます。

会津藩や桑名藩に薩摩藩などの幕府軍は御所を守り通しました。

敗北して長州藩が得たのは御所へ武力を向けたとして「朝敵」の汚名です。

しかし長州藩の危機は続きます。

関門海峡で外国船を砲撃する攘夷をしていた長州藩は8月5日から米仏蘭英の四ヶ国が連合した艦隊と戦いを三日間繰り広げます。

長州軍の大砲は欧米の軍艦へは届かず、逆に欧米の軍艦からの砲撃で長州軍の砲台は撃破されてしまいます。

長州藩は外国との力の差を実感して高杉晋作を使者に立てて四ヶ国と講和条約を結び攘夷を止めます。

しかし、朝敵となった長州藩は幕府による追討が迫りつつあり危機を乗り越えるのはまだこれからなのです。

下関で外国との戦争に負け、京都で禁門の変を起こし「朝敵」にされてしまった長州藩。

朝敵として幕府から追討を受けるまで追い込まれます。

長州藩の動乱は分岐点と言える時期に進みます。

幕府に降参する長州藩

1864年(元治1年)8月に長州藩を攻撃する幕府軍が出陣します。

長州藩は同時に起きた二つの敗北によって戦う意志を失い幕府へ降参する恭順の意志を示します。

幕府の要求である藩主毛利尊親の謝罪文と禁門の変で中心となった家老3人と参謀4人が切腹または斬首の処分を行います。

幕府は長州藩が要求通りに処分に納得して長州攻撃を取り止めます。

幕府との戦いは回避できたものの、藩内は幕府に従う姿勢を示す俗論派が主導権を握ります。

それまで尊皇攘夷運動を進めた正義派は弾圧され投獄や切腹をさせられる恐ろしい時期に入ります。

正義派である高杉晋作は脱藩して九州へ逃れます。桂小五郎は幕府の探索から逃れる潜伏生活を京都や但馬(現在の兵庫県)で更に続けます。

薩長同盟

九州へ逃れた高杉は12月に長州へ戻って80人の兵で決起します。

高杉が下関を制圧した事で俗論派の弾圧に耐えていた山県狂介(後の山県有朋)など正義派が立ち上がります。

膨れ上がった高杉の反乱軍は元治2年1月の大田・絵堂の戦いに勝利して俗論派から藩の政治を奪います。

長州藩の主導権を握った正義派は桂が戻って来た事で幕府との戦いに備え始めます。

しかし長州藩だけで幕府との戦うのは厳しい。そこで考え出された妙案は薩摩藩との同盟でした。

薩摩藩は幕府に近い存在と思われていました。しかし幕府と共に行う国政でズレを生じていた薩摩藩は幕府と距離を置き始めていました。

そうした背景で長州藩と薩摩藩は接近します。

薩長の桂や西郷隆盛などの代表者での交渉は進まなかったものの土佐の坂本龍馬やイギリス商人グラバーの仲介もあり慶応2年(1866年)1月に薩長同盟は結ばれます。

幕府との全面戦争、四境戦争

薩長同盟が結ばれた頃に幕府から長州藩へ通達が来ます。

長州藩から10万石を削り藩主尊親は隠居するという内容でした。薩長同盟を結んだ長州藩は幕府の命令には従いません。

幕府は長州藩を攻撃する事を決め15万人の兵力で攻め込みます。
6月7日に幕府軍による長州藩侵攻で第二次長州征伐または四境戦争と呼ばれる戦いが始まります。

迎え撃つ長州藩の兵力は3500人です。勝ち目は無いように見えます。

しかし、長州藩は藩の境で起きた4つの戦場全てで幕府軍に勝利します。逆に高杉率いる奇兵隊が九州の小倉城を攻め落とし村田蔵六(後の大村益次郎)も浜田藩(現在の島根県浜田市)の浜田城を攻め落とす反撃も行いました。

数千の長州軍が倍の幕府軍に勝てたのは薩長同盟によって武器を買えた事もありましたが、指揮官達を村田が4ヶ月の速成教育で西洋式の戦いをできるように育てたのも大きな勝因でした。

幕府軍も西洋式の近代的な軍隊でしたがその全てを投入した訳では無く近代化に遅れた紀州藩や彦根藩などの諸藩が多くを占めていました。

全力を投じた長州藩と全力を出し切らない幕府との差があったのです。

長州藩が維新の先頭を行けた理由

藩の防衛戦争に勝った長州藩は倒幕に向けて薩摩藩などと共に動き出します。

朝敵の扱いから解かれた長州藩は朝廷工作を再開して天皇中心の政治を行う王政復古の大号令を出させ徳川慶喜に政権を朝廷に返上をさせる事に成功します。

旧幕府勢力との戊辰戦争でも薩摩藩と共に新政府の中心となり明治時代を切り開きます。

長州藩が様々な動乱を経て明治時代の中心的存在となれたのは尊王攘夷運動から率先して動いていたかたです。

それは藩主の毛利尊親が「そうせい侯」と呼ばれるように藩士を放任していたからでもあります。

尊親が放任したせいで藩士同士の派閥争いと弾圧に敗北する戦いを引き起こす結果を生みました。そんな危うい道を進みながらも長州藩が維新の先頭を行き中心になれたのは桂や高杉などの藩士達が自由に動けたからだと言えるでしょう。

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ABOUTこの記事をかいた人

葛城マサカズ

ミリタリーと歴史が好きな30代男性です。 近現代史をメインとしてますが戦国時代や幕末も好きです。【詳細プロフはこちら】