幕末の戊辰戦争では薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍と旧幕府軍と会津藩や仙台藩などの東北諸藩が組んだ奥羽列藩同盟が戦争を繰り広げました。
その戦争で中立を望んだものの認められず戦火に加わった悲劇の藩がありました。
それが長岡藩です。
長岡藩の中心人物である河合継之助
長岡藩は現在の新潟県の北部を所領にしていた7万4000石の藩です。
藩の成立から牧野氏が藩主として長岡藩を治めていました。そんな長岡藩は幕末になると一人の逸材が現れます。
それが河合継之助です。
文政10年(1827年)に奉行格の身分である父親の息子として生まれました。
ペリーの黒船来航と言う一大事に長岡藩主が意見を広く求めた時に河合が出した意見書が藩主の目に留まり長岡藩の政治に参加する役職を与えられると藩の財政改革を行います。
積み重なった負債を整理し藩内を開発して石高を増やし、河の通行税を撤廃して流通を活発にして大赤字の長岡藩は河合によって財政危機を脱します。
そんな河合は戊辰戦争が勃発した時は家老上席と軍事総裁の地位にありました。
長岡藩の政治と軍事の権限を藩主から与えられた実質の指導者でした。
容赦なき新政府
徳川家や江戸幕府は新政府や朝廷に恭順する態度を示す一方で会津藩など東北諸藩は同盟を組み新政府に抵抗しようとしていました。
河合はそんな情勢で長岡藩を中立の立場に置こうと決めました。
東北諸藩と隣り合わせで迫る新政府軍に挟まれた長岡藩。
どちらにも味方せず中立を保ち戦火を回避して危機を乗り切るつもりでした。
河合は新政府と東北諸藩との調停役を長岡藩がする構想も持っていましたが事はそう上手く運びません。
慶応4年(1868年)5月2日に河合は長岡藩は中立であり戦わない事を伝えるべく小千谷の慈眼寺に本陣を置く新政府軍の東山道軍へ交渉に向かいます。
河合と会ったのは東山道軍の軍監である土佐藩の岩村精一郎です。岩村は河合の訴える長岡藩の中立や会津藩など東北諸藩との調停役を買って出る事を時間稼ぎの為に言う方便だとして信じませんでした。
岩村が認めるのは長岡藩が新政府に従うかどうかしか無かったのです。
新政府軍が全く長岡藩の言い分を聞かないと分かると河合は新政府軍との戦いを覚悟します。
新政府軍との交渉が決裂すると長岡藩は東北諸藩の奥羽列藩同盟に加わり、会津藩などから援軍を得て、5月10日に新政府軍を攻撃して戊辰戦争に参戦します。
長岡藩戦いの末に・・・
長岡藩は幕府とアメリカで結ばれた日米修好通商条約で開港する港の一つに指定された新潟港が領内にありました。
新潟港で長岡藩は西洋式の銃火器を購入し長岡藩は軍を近代化させてから新政府軍の戦争に突入しました。
この新潟港の存在が東北諸藩にとっては大事な武器が買える場所であり、新政府軍にとっては敵が武器を買う占領すべき拠点でした。
長岡藩の重要性は新潟港にあったのです。
新潟港のある長岡藩を守るべく会津藩や桑名藩など東北諸藩が援軍を出したのはその為です。
前線では応援の会津軍が新政府軍の一部を撃退するような善戦ぶりでしたが手薄になった長岡城を新政府軍が奇襲して落城させてしまいました。
河合は2ヶ月後の7月24日夜に600人以上の兵を引き連れ人が渡って通れないと言われている湿地帯の八丁沖を渡って長岡城へ攻め込み奪還する事に成功した。
しかし5日後の5月29日に長岡城は新政府軍に奪われ海外の兵器を買える貿易港の新潟港も既に新政府軍が占領するとさすがの長岡藩でも勢いを失いました。
勢いが無いのは河合が戦場で足に銃撃を受けた傷が原因で8月16日に亡くなり長岡藩は城だけではなく指導者をも失ってしまったからです。
新政府との戦争に敗れた長岡藩は7万4000石から2万4000石に減らされましたが長岡藩最後の藩主である牧野忠殻は版籍奉還で長岡藩知事になりますが、廃藩置県で藩から道府県制へ変わる前に藩知事を辞任して長岡藩は廃止となります。
忠殻は大正7年(1918年)、享年60歳まで生きました。
長岡藩は時代の理不尽さに呑み込まれた藩でしたが独自の道を探り諦めなかった強い藩であったと言えます。