時代劇「水戸黄門」の黄門様のモデルになったと言われる徳川光圀が藩主として治めていた水戸藩は幕末になると藩の内外で動乱を起こす荒れた時期を迎えます。
徳川御三家の一つである水戸藩は幕末でどうしてしまったのでしょう。
水戸学の思想
現在の茨城県に位置する常陸国35万国を治めるのが水戸藩です。
徳川家康の11男である徳川頼房により慶長14年(1609年)から水戸藩の歴史は始まります。
紀州と尾張のと並ぶ徳川御三家である水戸藩は二代目藩主の徳川光圀によって独特の思想が生まれます。
それが水戸学です。
光圀は独自に「大日本史」と言う歴史書を藩の事業として作ります。「大日本史」は最初の天皇である神武天皇から南北朝の分裂が終わった頃の後小松天皇までについて書かれた天皇を中心に書かれた歴史書です。
藩の事業として光圀亡き後も明治時代まで続けられた「大日本史」の製作は水戸学と呼ばれる天皇を敬う尊王思想を生みます。
この尊王思想が水戸藩に動乱の種となってしまうのです。
徳川斉彬と井伊直弼の対立
ペリーの黒船来航による開国で幕末日本に外国人が入国するようになります。
尊王思想を持つ人達は日本に異国が接近し入る事を嫌うようになります。そこから外国を追い払う尊王攘夷の考えになるのです。
その尊王攘夷の急先鋒となったのが第9代水戸藩主である徳川斉昭でした。
ペリー来航によって重要となった防衛問題を幕府で担当する海防参与に斉昭は任命されます。
水戸学の教えから斉昭は幕府の政治に参加するとより強い攘夷論を唱えます。開国して欧米との外交関係を結ぶ方針に向かう幕府と意見がズレてしまいます。
幕府大老に彦根藩の井伊直弼が就任すると斉昭は直弼が進める日米修好通商条約の調印に反対して対立を深めます。
直弼は反対意見を言いに江戸城へ登城した斉昭を「登城日では無い日に登城した」と言う理由で謹慎を命じられてしまします。
安政の大獄から桜田門外の変
斉昭は直弼によって謹慎を強いられ幕府からも排除されてしまい日米修好通商条約は調印されます。
更に斉昭は考明天皇から水戸藩へ送られた密勅の件で直弼の怒りを買い無期限の蟄居にされてしまいます。
直弼がその権力を大きく振るった安政の大獄による悲劇に斉昭も遭ってしまったのです。
しかし、直弼のやり方に反発する水戸藩士達の中に藩から密かに出て江戸へ向かった人達がいました。
関鉄之介ら17人の水戸浪士と1人の薩摩浪士を加えた18人が万延元年(1860年)3月3日に江戸城へ向かう直弼を連れて行く彦根藩の行列を襲撃しました。
桜田門外の変と呼ばれるこの事件によって直弼は水戸浪士によって暗殺されてしまいます。江戸幕府が大きな権力で全国の藩を従わせるような力を取り戻す事は無く幕府崩壊へと向かうようになります。
天狗党の乱
斉昭は桜田門外の変より5ヵ月後の8月15日に亡くなります。
水戸藩は桜田門外の変を起こした浪士や関係者を探し出し処刑するなど厳しく罰していました。
それで尊王攘夷派が勢いを失った訳ではありません。
文久元年(1861年)に水戸浪士17人が江戸にある東禅寺に置かれた英公使館を襲撃したり開国の政策を行う幕府老中である久世広周を水戸浪士が襲撃したりとより過激になります。
水戸藩の過激な尊王攘夷派は幕府が横浜港を閉鎖しない事に怒り元治元年(1864年)3月に筑波山で挙兵します。過激な尊王攘夷派が天狗党と呼ばれていたので天狗党の乱と呼ばれる9カ月間もの水戸藩内戦が始まります。
天狗党の乱は幕府からの追討軍も加わり天狗党は敗北に終わります。
幕末をリードした筈の水戸藩の処遇
水戸藩は独特の尊王攘夷の考えで徳川御三家の立場から幕末の政治をリードする役割を持ちかけました。
でも、幕府は開国して外国との貿易をする方針になると水戸藩の尊王攘夷路線と合わなくなり過激化と暴走により人材を失ってしまいます。
それは幕末の動乱期や明治新政府に水戸藩が関わる機会を失う事になってしまったのです。
しかし、徳川幕府の幕引きをする最後の将軍徳川慶喜が水戸藩出身なのは歴史の皮肉な部分です。