クジに運命を託した桑名藩

幕末に会津藩と共に京都で幕府を支えた藩がありました。

それが伊勢の桑名藩です。

徳川家の親族が藩主の譜代大名の桑名藩でしたが藩の命運を決める時は神社でのクジ引きでした。

果たして何故そうなったのか?そしてその結末はいかに。

桑名藩とはどんな藩か?

桑名藩は伊勢国の北部、現在の三重県北部にある11万石の藩です。

藩主は徳川四天王の一人である本多忠勝が最初で2代続きました。元和2年(1616年)に桑名藩は本多家から松平家が治めるようになります。

その松平家も久松の松平家と奥平の松平家が入れ替わり桑名藩主を努めます。幕末の時は久松松平家の治める2度目の時代で松平定敬が藩主でした。

その定敬は徳川家の一員と言える松平家でもありましたが、会津藩主の松平容保や尾張藩主の徳川慶勝の弟と言う血筋で家柄も血も徳川家に近い人間でした。

そんな定敬は幕末の動乱で京都の治安を守る京都所司代に任命され兄である京都守護職の容保と共に京都で不穏な動きをする尊皇攘夷派の取り締まりを行います。

京にあって徳川幕府を定敬と容保は支えて一橋慶喜(後の第15代将軍徳川慶喜)が将軍後見職となると慶喜・容保・定敬の三者の派閥である一会桑派を形成するようにもなり幕末の政治に桑名藩は影響力を持っていました。

転機、鳥羽伏見の戦い

慶応4年(1864年)1月に旧幕府軍と長州藩と薩摩藩を中心とした新政府軍が鳥羽伏見で戦火を交えます。
定敬の桑名藩も旧幕府軍に加わり戦います。
しかし錦の御旗を新政府軍が出した事で淀藩などが裏切り旧幕府軍は総崩れにされ大坂城へ引き上げます。
この敗北に旧幕府軍の総大将である徳川慶喜は容保と定敬を強引に連れて大坂城から江戸へと軍艦で退去していまいます。
鳥羽伏見から戻った藩士を置き去りにしたまま定敬は江戸へ向かいます。

運命をクジに託して

鳥羽伏見の敗戦が桑名藩に伝わると残る藩士達が二つの選択を巡り対立をし始めます。
一つは江戸に居る定敬と合流して再起を図る「東下論」でもう一つは城を枕に討ち死にする「死守論」といかに戦うかを議論していました。

藩士同士が険悪になるだけで意見はまとまりません。

命運をクジで決める事になりました。

桑名藩の藩祖が祀られている鎮国守国神社で神籤(かみくじ)を引き運命を決めます。そのクジを引いたのは24歳の家老である酒井孫八郎でした。

沐浴して身を清めてから引いたクジは東下論を示す「開」(城を開城して江戸へ向かうと言う意味)でした。

桑名藩の選択

神籤で江戸へ向かうと決まった筈がすぐに覆されます。

桑名藩の下級武士達が藩の命運を決める場に呼ばれないまま藩の方針が決まるのに不満を持っていました。

なので神籤で決まった開城して江戸へ向かう事に反対します。

逆に彼らは新政府への恭順を打ち出します。

この騒ぎを鎮めたのは信州の真田家から嫁いだ先代藩主の定猷(さだみち)の正室である珠光院でした。

珠光院が出席した御前会議により桑名藩の方針は一転して恭順に決まります。

しかし下級武士が反発した責任から政事奉行山本主馬と小森九郎右衛門が切腹してしまいます。

また30人の藩士が定敬の下で戦うべく江戸へ向かいます。定敬は桑名へ戻らず桑名藩の飛び地である越後の柏崎や会津で新政府軍と戦い続けます。

箱館で酒井孫八郎が定敬を桑名へ連れ戻しに来ます。しかし定敬は連れ戻される途上で逃げ上海へ逃れますが後に新政府へ降伏します。

その後の桑名藩

恭順と決まった桑名藩は1月28日に新政府軍へ桑名城を明け渡します。

藩士771人は藩内の寺で謹慎します。

桑名藩は会津藩に次いで新政府に敵対した罪を咎められていましたが謹慎以上の刑罰をされませんでした。

新政府との戦いを続けた定敬が降伏した事をきっかけに明治2年(1869年)に珠光院の子である松平定教を新たな藩主に立てての桑名藩再興が明治政府に認められます。

11万石から6万石に減らされた新生桑名藩は藩士に支払う給与である米や金銭の支給に窮して明治政府から資金を借りるなど苦難がありました。

そんな桑名藩も明治4年の廃藩置県で桑名県・安濃津県を経て三重県に編入されます。

藩主が不在で藩の方針が決まってしまうのは他にもありましたが、藩主が遠方で戦ったままで藩が恭順する例は桑名藩だけの例です。それでも修羅場から落ち着いた着地ができた藩とも言えます。

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ABOUTこの記事をかいた人

葛城マサカズ

ミリタリーと歴史が好きな30代男性です。 近現代史をメインとしてますが戦国時代や幕末も好きです。【詳細プロフはこちら】