幕末で日本国外はまさに弱肉強食の世界でした。
ヨーロッパ列強はアフリカやアジアなどに植民地を広げていました。
日本もまさにいつ欧米列強によって植民地化されてもおかしくありませんでした。
そして実際に日本の一部が植民地化されかけた時がありました。それを救ったのは長州藩士の高杉晋作です。
圧倒的に強い列強国相手に高杉がどう立ち向かったか紹介します。
外国船を追い払え!
第121代の天皇である考明天皇は外国人や異文化が日本国内に入るのを嫌っていました。
考明天皇は文久3年(1863年)3月に幕府へ攘夷を実行せよと促す勅使を送ります。
幕府は5月10日に攘夷を実行すると返答します。幕府がそう返事をしたのは朝廷も攘夷派が台頭し、長州藩が開国から攘夷に考えを変えて攘夷実行を朝廷へ訴える動きをしていたからです。
長州藩が攘夷論に代わったのは亡き吉田松陰が開いた松下村塾の門弟であった久坂玄瑞が中心となって開国論を捨てさせ攘夷論に変える運動をしたからです。
久坂の運動は実り賛同者を増やして長州藩を尊王攘夷論でまとめてしまいます。
尊王攘夷論は天皇の権威を尊重し外敵を追い払うと言う意味です。その考えなので長州藩は朝廷や天皇へ接近して外国との戦いに備えます。
長州藩、攘夷を実行
尊王攘夷論で固まった長州藩は朝廷に近づき長州藩の政治力を高めようとしていました。考明天皇が出し幕府が実行を約束した攘夷の勅命を実行します。
5月10日にアメリカ商船「ペムグローブ」を攻撃した時から長州藩は攘夷の戦いを始めます。
しかしイギリス・フランス・オランダ・アメリカの4か国は連合して17隻の軍艦で長州藩への報復攻撃を行います。
8月5日から4日間の戦いは砲台を一方的に破壊された長州藩の敗北に終わります。
長州藩が欧米と戦いを繰り広げている時に高杉は京都に潜伏している桂小五郎に会う為に無断で藩を出る脱藩をした罪で投獄され戦場にはいませんでした。
そんな高杉に長州藩は欧米連合軍との講和交渉を任せるために釈放します。
高杉晋作、欧米と交渉に入る
高杉は家老の息子である宍戸刑馬と偽名を名乗り長州藩代理として交渉に臨みます。
それは長州藩の家老など首脳部に外国についての知識が無いので文久2年(1862年)に上海へ視察に行った経験を持つ高杉を家老の代理として交渉へ送ったのです。
この時の宍戸もとい高杉の姿は直垂を着て烏帽子を被る礼装であったと言われています。
長州藩と欧米連合軍との交渉は8月8日から英軍の軍艦「ユーライアス」で行われました。
欧米軍側の要求は関門海峡での航行の安全・艦船への薪と水の提供・長州藩による新たな砲台の建設禁止・300万ドルの賠償金がまず提示されました。
高杉はその要求を受け入れました。
しかし賠償金は「攘夷を命令したのは幕府である」として賠償金の支払いを幕府へ押し付けます。
欧米軍の代表である英軍のクーパー提督や英公使オールコックはその点を認めます。後に賠償金は幕府へ要求しますが
300万ドルの大金は幕府も払いきれず明治政府に引き継がれてしまいます。
しかし欧米側の要求は続きます
更に下関の南端にある彦島の租借を要求します。
高杉彦島を古事記で守る
租借とは土地を借りる事です。しかし同じ租借で実質植民地のようになっている上海を6年前に直に目にしていた高杉は彦島租借を拒否します。
高杉は拒否する理由として「古事記」をその場で暗唱し始めます。
「古事記」とは飛鳥時代から奈良時代にかけて作られた日本最古の歴史書です。高杉はそんな古典である「古事記」を暗唱し出しました。
通訳で同席している伊藤俊輔(後の伊藤博文)は突然の事で困惑しながら高杉が暗唱する古事記を英語で伝えます。
いきなりよく分からない文献の暗唱を始める交渉相手に欧米側は困惑します。
延々と続く高杉による古事記の暗唱にクーパーもオールコックも根負けして彦島の要求を取り下げます。
こうして高杉は古事記によって彦島を守る事ができたのです。
高杉が成し遂げた成果は彦島だけではない
高杉の交渉により長州藩は賠償金を払わず、領地も取られずに済みました。
逆に高杉が見せた長州藩の不屈さはイギリスに長州の価値を認める結果も生みました。それは後に長州藩が倒幕に動く時にイギリスが長州藩を支援するようになるのです。