新選組は京都の街で江戸幕府打倒を目論む藩士や浪士と刀を交えて戦いました。
刀の戦いで名を上げた新選組でしたが時代の変化が訪れます。
「これからは刀ではなく鉄砲の時代だ」と土方歳三が実感する戊辰戦争の時です。
新選組最後の局長となった土方歳三がいかに奮闘したかを紹介します。
剣士として強かった土方歳三
新選組で鬼の副長と恐れられた土方歳三は剣の腕前はどうだったのか?
土方は25歳の時に天然理心流へ入門したと言われています。20代半ばからの入門とはいえ土方はすぐに剣の才能を開花させどんどん腕を上げて行きます。
天然理心流へ入門した事で土方は近藤勇と出会います。兄弟の如く親しい仲となる二人は新選組で激動の時代を共に歩む事になります。
万延元年(1860年)に出た江戸周辺にある名剣士が書かれた「武術英名録」に土方は名を連ねます。20代半ばになって土方は江戸で認められた剣士の一人となりました。
新選組の土方
江戸で天然理心流の剣術を磨いて自他共に認める強い剣士となった土方は浪士組を経て新選組の副長となります。
新選組は京都の街で尊王攘夷の考えや幕府打倒の意志を持つ浪士や藩士を捕らえるまたは斬り幕府の体制を守るのが役目の集団です。
この新選組を土方は共に上京した近藤と共に作りしまた。近藤は新選組の局長となり土方は副長として近藤を支えます。
帝を連れ出す為に京都を炎上させようとした長州藩士の暴走を近藤と土方はその剣の腕で防いだ池田屋事件など剣の腕を大いに生かしました。
池田屋事件から4年後の慶応四年(1868年)1月3日から起きた鳥羽伏見の戦いは剣の道を歩む土方や近藤ら新選組にとっては辛い戦いとなりました。
旧幕府軍が薩摩藩と長州藩の新政府軍と戦う鳥羽伏見の戦いは銃撃や砲撃が飛び交う戦いでした。剣の道を磨いたとはいえ銃撃を向けられると刀の間合いにまで敵兵に近づくのは無理です。
伏見奉行所に布陣していた新選組は退却を余儀なくされ旧幕府軍の敗北により江戸へと戻る事になります。
土方は鳥羽伏見の戦いから「これからの戦争は銃砲でなければだめだ。俺は剣と槍を取って戦ったが、全く役に立たなかった」と戦いの変化を受け入れます。
戊辰戦争を戦う戦場指揮官土方
江戸に戻った新選組は甲陽鎮撫隊として甲州勝沼で新政府軍と戦いますが敗れ下総の流山で一番の盟友だった近藤が新政府軍に捕まり処刑されてしまいます。
そんな悲運に遭っても土方は新選組を率いて江戸から脱走した大鳥圭介が率いる旧幕府陸軍と合流して新政府軍との戦いを続けます。ここでようやく銃砲の扱いに慣れた兵士と組んで戦うようになります。宇都宮城攻略や会津戦争を旧幕府軍の指揮官の一人として戦いました。陣頭指揮に立ち激しい攻撃を仕掛ける勇猛さと歓声を上げて敵が少数だと分かるとあえて攻撃せず先を急ぐ知略も見せます。
また逃げる兵士を斬り「退却する者はこうだ」と新選組鬼の副長の如く戦いました。戦場の指揮官として土方はすぐにその能力を発揮したのです。
しかし明治2年(1869年)1月の宮古湾海戦では新政府軍の軍艦「甲鉄」を奪う作戦を陣頭指揮しますが乗っている軍艦
「回天丸」が「甲鉄」へ上手く接舷できなかったせいで「甲鉄」への乗り込みも失敗してしまいます。
土方が近代戦の指揮で際立っていたのは明治2年4月から蝦夷地で繰り広げられた箱館戦争でした。
新政府軍600人を土方は二股口で130人の兵士で防ぎます。胸壁と言う陣地を作り銃撃で新政府軍を撃退する事に成功します。刀を使う剣士では無く銃の火力で戦う指揮ができる軍人として土方は適応する事ができたのです。
副長として隊長としての土方
二股口で勝利した土方ですが蝦夷の戦いは全体的に新政府軍が優位で土方は箱館に退却を余儀なくされます。箱館の弁天台場で戦う新選組に合流すべく馬で向かう途中で土方は銃撃に倒れます。
20代半ばで剣の才能を開花させ29歳で新選組副長として組織をまとめる立場になり34歳で銃や大砲の戦いを指揮するようになります。この成長ぶりは土方の才能と変化する環境に合わせられる土方の器の大きさもあります。土方の柔軟さが剣士だけではない土方の優秀さを伸ばしたのです。